カロンの舟を降りた一行は、静寂に包まれた灰色の岸辺に立った。
「……あれがオルフェウス公のお城……」アイリスが息を呑みながら呟く。目の前には霧の中に沈むようにして佇む、オルフェウス公の古城があった。巨大な城門の前まで来た時、カイルが軽薄な口調で言った。「おいおい立派な門だが取っ手も何もねえじゃねえか。どうやって入るんだこりゃ」城門は、一枚の巨大な岩を削り出したかのように、滑らかだった。その表面には、美しくも物悲しい蔦の彫刻がびっしりと覆い尽くしている。「黙れカイル。作法というものがある」ジェームズが彼を諌めると、一歩前に出て、威厳ある声で呼びかけた。「王子様からの御使いでございます!オルフェウス公、どうか開門を!」しかし城門は静まり返ったまま、何の反応もない。生きていた蔦がそのまま石と化したかのような彫告は、一行を歓迎するのではなく、拒絶しているかのようだった。そしてその巨大な門には、呼び鈴も扉を叩くための取っ手すら、どこにも見当たらない。「……本当に閉ざされているのね。心も、扉も……」アイリスの、か細い呟きだけが響いた。それはまるで、永い間誰の訪問も許さなかった固く閉ざされた、心の扉そのものであった。一行が閉ざされた城門の前で、途方に暮れていたその時だった。
「?」どこからか、アイリスの耳に静かな旋律が届いた。それは物悲しくも、透き通るように美しい、竪琴の音色。そしてそのメロディは、不思議なほどに懐かしく、彼女の心の奥深くを優しく揺さぶる。「音楽……?」アイリスがそう呟くとジェームズが静かに頷いた。「左開かれた城門の先にあったのは、巨大な中庭だった。しかしそこに咲いているのは、命ある花ではない。庭一面に置かれているのは……無数の美しい石像たちだった。 「まあ……」 リリーが息を呑む。 「ここにあるのは全て石像ですわ」 それらは皆、何かを嘆くかのように悲しい表情を浮かべていた。天を仰ぎ、涙を流す者。愛しい誰かを抱きしめるように、うずくまる者。その全てがあまりに精巧で、まるで今にも動き出し、嗚咽を漏らしそうだった。「はっ……随分と趣味の良い庭だね。公爵様とやらは、人の不幸を眺めるのがお好きなのかね」カイルが吐き捨てるように言った。「カイル、不敬だ」ジェームズが低い声で彼を諌める。「これはおそらく、この地に還ってきた魂たちの最後の姿を、公爵が石で形作ったもの……」アイリスは言葉もなく、この光景を見つめていた。石像たちの声なき悲しみが、彼女の心に直接響いてくるかのようだった。そうして、一行は物言わぬ石像たちの間を縫うようにして、庭園の中央へと進んだ。そこにはひときわ大きく、そしてひときわ美しい一人の女性の石像が、静かに立っていた。「この石像……なんか、他のと違いますわね」リリーが思わず呟く。確かに彼女の言う通り、流れるようなドレスも繊細な指先の表情も、まるで生きているかのようだ。だが……。「顔が……ない?」顔だけが、滑らかなままだった。あるはずの、瞳も鼻も唇もそこには何もない。ただの石のままだった。その異様な光景にカイルが呆れたように吐き捨
ジェームズが腕を組み、唸った。 「しかしこれでは中に入れんな……」 リリーも困ったように眉をひそめている。そんな二人の様子を見て、カイルが肩をすくめた。「どうする?いっそここで、野宿でもしてみるか?そしたら、心優しい公爵様が哀れんで中に入れてくれるかもよ」そのあまりに無責任な提案にリリーが怒りの声を上げる。「もう!あなたみたいな腐ったゾンビはそれでいいかもしれないけど姫様に野宿なんてさせられるわけないでしょうが!」「まあまあ、そう怒るなよ冗談だって」そんな三者三様の反応をアイリスは静かに見ていた。そして彼女もまた腕を組み考える。(どうすればいいのかしら……彼の許可を得るためには、まず会わないと……)この固く閉ざされた門を開ける方法を。この心を閉ざした公爵に会うための術を。アイリスは一人、静かに思案に暮れる。一行は固く閉ざされた城門の前で、完全に立ち往生してしまった。「こうなれば一度王子様の元へ戻り正式な謁見の許可を取り付けるべきですな……」生真面目なジェームズがそう提案する。「はっ冗談だろ。そんな悠長なことしてられるかよ。さっさと壁でも登るのが一番早い」カイルが呆れたようにそう返す。「あなたたち二人ともやめなさい!この門はそういう問題では……」リリーがそう言い返す。三人の議論は全く噛み合わず、ただ時間だけが過ぎていった。「……」だがアイリスは、その議論を聞いていなかった。何故なら……彼女の意識は、ただ一つのものに集中していたからだ
カロンの舟を降りた一行は、静寂に包まれた灰色の岸辺に立った。「……あれがオルフェウス公のお城……」アイリスが息を呑みながら呟く。目の前には霧の中に沈むようにして佇む、オルフェウス公の古城があった。巨大な城門の前まで来た時、カイルが軽薄な口調で言った。「おいおい立派な門だが取っ手も何もねえじゃねえか。どうやって入るんだこりゃ」城門は、一枚の巨大な岩を削り出したかのように、滑らかだった。その表面には、美しくも物悲しい蔦の彫刻がびっしりと覆い尽くしている。「黙れカイル。作法というものがある」ジェームズが彼を諌めると、一歩前に出て、威厳ある声で呼びかけた。「王子様からの御使いでございます!オルフェウス公、どうか開門を!」しかし城門は静まり返ったまま、何の反応もない。生きていた蔦がそのまま石と化したかのような彫告は、一行を歓迎するのではなく、拒絶しているかのようだった。そしてその巨大な門には、呼び鈴も扉を叩くための取っ手すら、どこにも見当たらない。「……本当に閉ざされているのね。心も、扉も……」アイリスの、か細い呟きだけが響いた。それはまるで、永い間誰の訪問も許さなかった固く閉ざされた、心の扉そのものであった。一行が閉ざされた城門の前で、途方に暮れていたその時だった。「?」どこからか、アイリスの耳に静かな旋律が届いた。それは物悲しくも、透き通るように美しい、竪琴の音色。そしてそのメロディは、不思議なほどに懐かしく、彼女の心の奥深くを優しく揺さぶる。「音楽……?」アイリスがそう呟くとジェームズが静かに頷いた。「左
ジェームズに導かれ、一行は城の地下深くへと、続く長い螺旋階段を降りていった。ひんやりとした湿った空気が、アイリスの肌を撫でる。やがて彼らは、寂れた石造りの船着き場へとたどり着いた。「わぁ……」アイリスは、目の前に広がる光景に息を呑んだ。そこには広大な地底湖が、静かに広がっている。天井には無数の青い鉱石が本物の星々のように瞬き、その光が静まり返った黒い湖面に映り込み、まるで夜空そのものが逆さまになったかのようだった。その幻想的な光景の中に、一艘の古びた小舟が浮かんでいる。そしてその傍らには、フードを深く被った背の高い骸骨が、一人長い櫂を手に静かに佇んでいた。「綺麗……星の海みたい……」アイリスが思わずそう呟く。「よう渡し守の旦那。相変わらず無口で、不気味なこった」カイルが、静寂を破るように軽口を叩いた。「カイル黙れ。カロン様に対して無礼だぞ」ジェームズが即座に低い声で彼を諌める。リリーもはアイリスを安心させるように、そっと囁いた。「姫様。この方は地下の星海を渡してくださる渡し守のカロン様です。とても静かな御方ですから、ご安心を」フードの奥の闇は見えない。ただカロンと呼ばれたその骸骨は、ゆっくりとアイリスの方へ、顔を向けたような気がした。「ちぇっ、無愛想なこったな」カイルがいつものように、軽口を叩こうとする。しかしカロンのフードの奥の闇が、すっとカイルの方を向いた。途端にカイルはその口を噤み、気まずそうに視線を逸らした。「カロン様。失礼いたしますぞ」ジェームズが、恭しく一礼して舟に乗り込む。リリーがアイリスの手を優しく引き、それに続いた。カイルはばつが
カイルは床に転がった自らの首を億劫そうに拾い上げると、慣れた手つきで元の場所へと戻した。ぐちゃ、と気味の悪い音がして、彼の身体はようやく一つになる。「まったく……なんでこんなところに、犬なんているんだか」彼は服についた埃を払いながら、忌々しげにそう呟いた。あまりにも自業自得な言い草に、ジェームズが心底軽蔑したような低い声で言う。「日頃の行いが、悪いからだ」リリーもまた「ええ、天罰ですわ」と、冷たく、言い放った。そんな実に同僚思いの二人の反応を見て、カイルは大げさに肩をすくめてみせる。だが次の瞬間には、飄々とした表情をすっと消し、まるで別人のような、真剣な眼差しでアイリスへと向き直った。「さてと、姫様。そろそろ、お仕事の時間だ。王子様から有り難いご伝言を預かってきてる」「伝言ですか……?」アイリスは、彼の真剣な様に少し戸惑う。「ああそうだ」カイルは頷くと王子の言葉をそのまま伝えるかのように静かに告げた。「まず『忘却の公爵』オルフェウス卿の許可を得よと。そしてこうも仰せだった。かの公爵ならばきっと姫様の力になってくれるはずだと」忘却の公爵。私の力に……?アイリスは、王子の謎めいた伝言の意味をただ胸の中で繰り返す。そして、彼女は目の前の三人の従者たちへと向き直り、尋ねた。「オルフェウス公とはどのような御方なのですか」その問いにまず、カイルが待ってましたとばかりに口を開いた。その唇には意地の悪い笑みが浮かんでいる。「オルフェウス公か。そいつは冥府が誇る引きこもりの麗しい公爵様さ。自慢の美しい顔をこれみよがしに曇らせて自分の城でずうっと物思いに耽ってる。麗しい公爵様が悲しみに暮れる姿はさぞかし
リリーは、ぷんぷんと怒った様子でカイルを睨みつけた。「カイルあなたいい加減になさい!アイリス様をからかうのはおやめなさい!」アイリスは、三人のやり取りを、驚きと困惑の中で見つめていた。しかしその奇妙な光景は……何故だか、彼女にとっては嫌ではなかった。この気持ちは、一体……?「王子様直々のご命令なんだから仕方ないだろ」カイルは、わざとらしく肩をすくめた。その動きで、彼の肩の関節がミシッと鈍い音を立てる。「俺だって骨組みくんと透明お嬢さんと仲良くやっていくつもりだよ。それと、世にも珍しい生きてるお姫様ともね」「誰が骨組みくんだ」ジェームズが心底うんざりした声で呟いた。その声には、もう怒りではなく諦めのような響きがあった。「透明お嬢さんですって……」リリーは不満そうに、その半透明の頬をぷくりと膨らませる。その奇妙でどこか微笑ましい三人の掛け合いに、アイリスの唇から思わず笑みがこぼれた。不思議な従者たちのやり取りが、自身の心の氷を、少しずつ溶かしていく感じがして……。「さあ、お姫様」カイルが、芝居がかった仕草で優雅に腕を差し出した。その袖口からは、ゾンビ特有の緑がかった肌がわずかに覗いている。「これからはこの完璧な俺とそこの骨董品に透明お嬢さんを加えた愉快な一行がお供だ。途中で俺の腕が取れたり脳味噌がこぼれてもまあご愛敬ってことで。腐るのがゾンビの仕事なんでね」不思議な青年だとアイリスは思った。だがその言葉には不思議と悪意は感じられない。ジェームズとリリーは明らかに不満そうな顔でカイルを睨んでいる。しかし王子の命令である以上彼らも逆らうことはできないのだ。「…&hell